WWNニュース №58号 2010.1,25発行 エッセイ
それは平成18年10月13日の「万葉の会の皆様へ」のe-mailで始まりました。私達は、「万葉時代」を求めて、春はハイキング、秋はお月見、と楽しんできた、日商岩井(現在・双日)を中心とした有志のグループです。今回は,中山道69次、534キロもの長い距離を歩く旅に挑戦することになったのです。どのようなペースで進み、いつ頃終わるのか?休暇は連続で?毎日どのくらい歩くのだろうか?など、それぞれが不安をかかえてのスタートでした。でもそこは、長くおつきあいしているメンバーなので、体力や財力までも考慮の上、全員が完歩することを第一に、また、「楽しくなくては意味がない」と綿密に計画は練られたのでした。
長い距離を連続で歩き続けるのは無理でしたから、まずは、スタートの京都三条大橋から高宮宿(第64次)までは、月一回のペースで歩きました。平成18年11月、京都を出発し近江路(滋賀)に入ると、都会のアスファルト道ばかりで、かつ、国道に沿って歩きます。開発、整備で寸断されている箇所もあり、立ち往生することもしばしば、前途多難と思ってしまいました。でもこの初期の区間にある各宿場で、今は「跡」しか残っていなくても歴史の証人となり得る「一里塚」「本陣」「高札場」という重要スポットの存在だけは確認するという基本動作が自然と身についていった気がします。
平成19年3月からは、一泊二日の行程となりました。最初に宿泊したのは醒井宿(第61次)でした。ここは真夏に花を咲かせるバイカモでも有名で、水量豊かな趣きのある宿ですがちょうど桜の開花と重なって、あちこちで桜の花を愛でることができたのでした。翌日は、美濃路(岐阜)に突入。その日は天下分け目の合戦場の舞台となった関ヶ原宿(第58次)まで歩を進めたのでした。
その後も回を重ねて順調に進み、揖斐・木曾・長良川では、港や渡しの跡を見学しながら通過しました。古い町並みや石畳の残る路を歩き進む中、細久手宿(第48次)では、尾張藩指定の旅籠で今もなお当時の建物をそのまま残す「大黒屋」に宿泊し、いやが上にも中山道気分は高まります。また、この頃、男性陣が三度笠を着用し始めました。
真夏の休会を経て、同年11月、JR恵那駅から再開しました。いよいよ中山道のハイライトである木曽路(岐阜・長野)を間近に控え、この回からは二泊三日の行程となりました。一瞬、数百年前に飛び込んだかと錯覚するような馬籠宿(第43次)と妻籠宿(第42次)は観光地としても有名で、旅人が絶えない宿場です。
20年4月には、福島宿(第37次)~宮ノ越~薮原~奈良井(第34次)を通過。このあたりは、往時の風情を残す宿場とJR中央本線に右に左にと沿って歩きながら、美しい景色を眺めることができる癒しの区間でもありました。翌月には、最大の難関と言われる「和田峠」に挑戦。’峠‘というより、もはや登山のレベルでしたから、ついつい「皇女和宮の行列は本当にこの峠を越えたのだろうか」など感じてしまうのでした。でも全員無事通過し、芦田宿(第26次)まで到達したのでした。
終盤の4回の旅は、三泊四日とさらに一日延ばさざるを得ませんでした。前回のゴール地点に戻るだけで半日はかかってしまい、歩く時間が限られてくる為です。それに加え、公共交通機関も不便な場所が多かったので、和田峠越えからは,チャーターバスを利用しました。
平成20年11月、八幡宿(第24次)から軽井沢宿(第18次)は好天に恵まれ、ずっと浅間山を眺めながら歩くことができ、とてもラッキーでした。地元の人から「こんなに浅間山が見える日が続くのはめずらしい」と聞けば「普段の行いがいいから」と自分勝手に褒めながら、当時の人々も同じ風景を見たであろうことにも感動したのでした。軽井沢宿を過ぎると上州路・武州路(群馬・埼玉・東京)の都市部に入り、一里塚や本陣跡のチェックをしながら一路ゴールを目指し、ついに平成21年11月23日、丸三年で日本橋にゴールしたのでした。全行程踏破に要した日数は、15泊41日にもなりました。
壮大な中山道の旅をようやく歩き終え、その達成感や、あちこちに残る歴史と自然の素晴らしさは言うに及ばず、出会った人々が「みんな素朴で優しかったなぁ」と感じています。反対に旅人である私達はどうだったか?「いい旅人だったなぁ」と思われていると信じながら、そして各人が健康であったことに感謝して、今回の旅を締めくくりたいと思います。