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WWN ニュースレター 2009年1月10日発行②

エネルギー源は私たちの国際活動(住友メーカー裁判元原告)

 

 

 
私にとって3度目のCEDAWの季節がやって来た。1度目は19941月。住友裁判が始まる大きなきっかけとなった「雪のニューヨーク、CEDAW傍聴」であった。2度目は2003年7月。翌8月にCEDAWが日本政府に出したすばらしい「勧告」によって、私たちは地裁の全面敗訴を覆す高裁での勝利和解を勝ち取った。20031224日のことであった。

 いよいよ3度目。遅れていた第6次日本政府報告がやっと出され、20097月にニューヨーク国連で審査がある。まずは本審査の質問作成のための作業部会がジュネーヴで行われた。ランチタイムでのロビイングは越堂さんの奮闘で大成功。雇用管理区分、間接差別の問題を委員の方々にきっちり訴えることができ、大いに手ごたえを感じることができた。1週間の休暇を取るのはきついが、この手ごたえこそが私のエネルギーの根幹だなあとつくづく思う。さらに今回はパリのOECD本部を訪ねることができ新しい出会いがあった。WWNの国際活動はますます進化する。7月のCEDAWが楽しみである。              

(白藤栄子)

 

 急遽参加することになったCEDAW・作業部会。前回のCEDAW日本審査は2003年でした。私たちの裁判が一審で全面敗訴となり、まもなく高裁の判決がでるかも知れないという時期で、職場に気を使いながら、2月の作業部会、7月の本会議と1年に2回、ニューヨークへ行きました。CEDAW委員会からすばらしい勧告が出され、それが裁判での感動的な和解勧告につながったのです。今回の作業部会で議長をされたパッテン委員は、幸いにも2003年のときも委員をされていて均等法、コース別について質問して下さった心強い委員です。この方とランチタイムミーティングができました。

  WWNのミッションをしっかり伝えた後、パッテン委員に、「前回は原告として参加し、本会議で発言しました。CEDAW勧告の影響を受け、高裁で勝利和解ができ感謝しています」と伝えてもらうと、「覚えています。これは、皆さん達とCEDAWとのコラボレーションです」と言われ(語学力の乏しい私でも、この言葉はしっかり聞き取れました)、感激しました。また「和解勧告の英訳はないのですか」とも聞かれ後日お送りしました。CEDAW委員にもいろいろな方がおられますが、女性差別撤廃に取り組むCEDAW委員会の意思を感じ、とても心強い思いがしました。    

(西村かつみ)

 

   右も左もわからず無我夢中で初めて参加したのが1994年の第2回CEDAW会議(これが第2回目だということも後で知りました)、作業部会と本会議、半年間で2度参加した2003年の第3回会議、そして裁判を終え、元原告として大切なミッションを背負っての今回となりました。

 

 ジュネーヴ入りしたのは11月8日、CEDAW作業部会を10日に控え、9日はぽっかり空いた空白の一日。晩秋のレマン湖畔を満喫しようと、朝早く電車に乗ってシヨン城へ行きました。駅からお城までイチョウ、ポプラ、プラタナスなどすっかり紅葉した散歩道を約1時間散策、じっと湖畔にたたずむお年寄りやファミリーに出会いました。どのファミリーも子どもは3人以上、自転車に乗ったり、バギーを押したり、子どもを抱きかかえてローラースケートするお父さんもいて、まさしくワークライフバランスを目の当たりにしました。

 

 後で訪ねたパリでも、女性は妊娠4ヶ月以上になると、強制的に毎月2科目の定期診断を受けなければならず(もちろん無料)、医療機関から受診証明のサインをもらわなければならないと聞き、日本の現状との大きな違いに愕然としました。パリでOECDに勤務し、長く日本の中央官庁で働いたことのある日本人女性に会った時、「ここの人たちの働き方を見ると、私も結婚し子どもを生めたかも知れない」と言うのが印象的でした。 

(石田絹子)

 

 

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